<第2話>

女の子が走ってくる。
「おばあちゃん」
二人の婦人が立ち止まる。
「はるなちゃん。元気だった?よくわかったわね」
「うん。遠くからでも、すぐおばあちゃんだってわかった」
「孫のはるなです」横の婦人に言う。はるなも挨拶をした。
「山本はるなです」
「はじめまして、浜崎京子です」
「おばあちゃんのお友達?」
「高等学校時代の先輩なのよ。列車の中で偶然会ったの。浜崎さんは、あなたと同じ平和台小学校の生徒だったのよ」
「へえ、そうなんだ」
「あの木造校舎は、いまは学童クラブになっているんでしょ?」浜崎がはるなにたずねた。
「はい。学童クラブと、教材クラブがあります」
「教材クラブ?」
「社会人がやっている、趣味の勉強会みたいなものよ。子供も参加できるんですって」はるなの祖母がかわりに答えた。


「この子が小学校に入学した三年前から、新しい校舎に移ったんですよ」
「校舎、新しくてきれいだよ」
「そう、よかったわね」浜崎ははるなに微笑みかける。

「しばらく平和台に滞在されるのでしょう?」はるなの祖母は浜崎にたずねた。
「はい。駅前の旅館に泊まっています」
「連絡させてもらってもいいですか?」
「ええ。ぜひ。待ってますね」

「では、また」はるなの祖母が浜崎に会釈する。
「さようなら」はるなが浜崎に言う。
「さようなら」


田中校長を含む五人の男たちが、木造校舎の近くにやって来る。そこへ・・・
「まったく危なくてしょうがない」波木が戻ってきた。
「波木会長」皆は頭をかるく下げる。校長は波木を見る。
「では我々はこれで失礼します」波木と校長を残し、他の男たちは帰ろうとする。そのうちの一人が波木に言う。
「明日の教材まつりの準備のために、夕方また来ます」
「よろしく」波木は片手を挙げてそれに応えた。

「まあ、せっかく来たんだ、お茶でも飲んでいってくれ」波木は田中校長に言った。
「何のために来たか、わかっているだろう?」
「お前さんの顔を見りゃあ、だいたい察しは付くがね」
波木の招きに応じて、校長は木造校舎の玄関口へ向かう。
ランドセルを背負った小さな男の子がやって来て、スキップをしながらその前を通り過ぎようとする。
「校長先生、さようなら」
「はい、さようなら」田中と波木は中へ入った。
校舎の前を通る道は、そのままゆるやかな下り坂になっている。
その道を校舎へとゆっくり登ってきた浜崎の目の前で、男の子は躓いて転んでしまった。
「だいじょうぶ?」
男の子は膝を押さえている。
「あら、けがをしているわね」 浜崎は周囲を見回して、男の子に言った。「すこし歩ける?」 男の子は頷くと、浜崎に支えられて何とか立ち上がった。

転んでケガをした子供をつれて、浜崎は木造校舎に入ってきた。
「すみません。この子がケガをしたものですから」
「薬を持ってきましょう」 波木は急いで救急箱を持ってきた。
「ありがとうございます。ちょっと、ここをお借りします」
「どうぞ。何かあったら、声を掛けてください」
波木は浜崎をこの子のおばあさんだと思ったらしい。

隣の事務室へ戻ると、波木は田中校長に椅子を勧め、お茶を注ぎながら言った。
「ヒロシが、またダンプカーによじ登った」
「またか。あれほど注意したのに。で、怪我は?」
「大丈夫だ」
波木も椅子に座る。
「ヒロシの父親は、単身赴任で何ヶ月も戻らない。知っているか?トンネル工事現場で働いているって」
「知っている」
「あいつはそれが自慢だ。ダンプカー、ショベルカー、ブルドーザー、そういう工事の車両があると、あいつはすぐそばに行きたがる」
田中校長はお茶を一口飲んで言った。
「子供たちを見ていてくれてありがたい。怪我がなくてよかった」

波木が言う。「最近、工事関係の車両が敷地内に入ってくるようになった。子供たちの遊び場付近だ。大きな事故につながりかねない」
「この校舎を壊して、ここに工場を建設しようとしている業者の車だ」
「立ち退かないといっているのではない。あまりにも話が急だ。そして強引すぎる。平和台の住民への配慮が見られない」

田中校長が言った。
「認定取消の申立について、村長が心配している・・・教材作家クラブを認定したのは村長だが、推薦したのは平和台小学校校長である俺だ。お前が事情を説明しないから、俺に何とかしろと言ってきた・・・どうなんだ波木」
「お前には面倒をかけている」
「そんなことはどうでもいい。村長は認定取消かどうかの判断を、俺に任せると言ってきた。・・・
お前とは、ここの小学生だった頃から、切磋琢磨してきた仲だ。共に教師となり、遠く離れても連絡を取り、励まし合ってきた・・・
そして次期平和台小学校校長を、お前と俺の、どちらがやるかということになったとき、お前は突然、教師を辞めた・・・
自分がやりたいと前から思っていたことをやると言ってな」

波木は言った。「自分がやりたかったこと・・・それは、社会人の教育参加だ。
一般社会人の中には、学問や教育に関心を持つ人は大勢いる。教育者としての資格や経験がない人。子供がいなかったり、いても学校を卒業して教育とは縁が切れている人。そういう人々の話を聞いてみると、なかなか面白い・・・
子供の勉強をみてやっているうちに、自分のほうが面白さに目覚めて熱中してしまう親もいる。アマチュアだからといって彼らを観客席にばかり置いておくのはもったいない・・・
金のためでも試験のためでもない学問、1点にも1円にもならない学問だよ。彼らはただ面白いから熱中している・・・
彼らのために、発表の場をつくろう。正しいか正しくないかは別として、その面白さを語らせよう。俺はそう思ったのだ」

校長の田中は言った。
「お前はこんなことも言っていた。
たとえば数学という広大な自然公園がある。
そこには多くの山々がある。
聳え立つ山の名は、アルキメデス山、ニュートン山、ガウス山など。
その山に挑み成果を挙げた学者の名が付けられている。そしてその弟子の学者たちが、それを整備し、地図を作る。
切り拓く者、それが学者。 ―

俺たち教師のことは、こう言った。
学者が作った地図を基に、子供たちを導く。そして子供たちを強くする。
導く者、それが教師。 ―

そしてお前は、さらに第三の者を付け加えた。
この自然公園の入り口には、その他にも様々な人々がやって来る。
彼らは切り拓く者でも、導く者でもない。
彼らは、山々を写真におさめたり、絵を描いたり、歌を詠んだりする。
そして、その山が最も美しく見えるというハイキングコースを知っていたりする。
プロが知らない、自分たちで発見したコースだ。
彼らの多くは休日にやって来て、平日は仕事があるから帰って行く。 ―

彼らが持っている写真を、絵を、歌を、そして地図を飾る小屋を作ろう。
彼らの作品を、彼らの教材を、発表するための小屋を作ろう。
彼らは山の正確な知識を伝えることはできない。
しかし、その山を体験する喜びを伝えることはできる。
これは、教育にとって、力強い後方支援となるだろう。 ―

支援する者のことを、「教材作家」と呼ぼう。
彼らが集う山小屋を「教材クラブ」と呼ぼう。 ―

お前はこう言って、平和台村が教材クラブを準教育機関として認定するように、推薦してほしいと俺に頼んだ。
俺は喜んで推薦した」

「感謝している」波木は言った。

田中は続けた。
「しかし、周囲では別の見方をする者もいる。
認定取消の訴えが起こされるような教材クラブを、廃止できないのか誰のせいか。
それは、平和台小学校校長である俺のせいだと言うのだ」
「何?」
「俺が教材クラブの推薦人になったのは、波木のおかげで校長になれたことに対するお礼。クラブを廃止できないのは、波木にその恩義を感じているから。
まるで俺が、お前から校長の椅子を譲ってもらったかのような言い方だ」

「そういうことを言うやつがいたら、ここへ連れて来い。俺がぶんなぐってやる」
「おい。無茶を言うな」
「そうしたら、そいつもよくわかるだろう。お前の方が校長にふさわしいって事がな」

「波木よ。釈明しろ。工場建設反対の運動家に教材クラブで発表させたのは、手違いだったと」
「彼らはこの近くの小川にいる川魚が、絶滅の危機にあることを調べた。そしてそのことを平和台の自然をもっと理解するための教材として発表しただけだ。その発表内容がなぜいけない」
「しかし彼らは工場建設に反対する組織に所属していたんだぞ。それを知っていたのか」
「知らん」
「ならば、知らなかった。調査不足だったと釈明しろ」
「いやだ」
「強情っ張りめ」

ケガをした子供の傷の手当てをしながら隣室で話を聞いていた浜崎は、絆創膏をつけ終わると・・・「これでよし」・・・男の子の手を引いて立ち上がり、「どうもありがとうございました」と波木に声をかけた。

波木は椅子から立ち上がると戸を開けて、隣室へ顔を出した。
「傷の具合はどうですか?」
「痛がっていましたけど、薬を塗ったのでもう大丈夫です。・・・どう?痛くなくなった?」
「うん。もう痛くない。ありがとう」
「よかったな。気をつけて帰るんだぞ」波木は男の子に声をかけた。
「さようなら」男の子は波木に手を振った。
「ありがとうございました」と浜崎は礼を言うと、男の子の手を引いて、木造校舎から出て行った。

「待てよ・・・タケルにあんなおばあさん、いたっけ?・・・」
波木は二人のうしろ姿を見送りながら呟いた。
「どうした?」田中校長が波木に声をかける。
「いや、何でもない」波木は戸を閉めた。

田中は言った。
「俺は、誰から何と言われようと、認定取消にはしないぞ。
だが近いうちに一度、村長と会って話をしろ。済みませんでしたと謝る必要はない。
話せば分かってくれる人だ。いいな、波木」

戸をノックする音が聞こえ、波木は振り返る。
「お父さん」真理子が戻ってきた。その後ろから、速見が会釈する。
「どうした、真理子。速見君も一緒か」
二人が入ってきて、校長と波木に挨拶をした。

「さて、私は帰るとするか」田中校長が椅子から立ち上がる。
「校長先生・・・」 真理子が校長に近寄り、申し訳なさそうに頭を下げる。
「いろいろご心配をかけて済みません」
「大丈夫だよ」田中はコートを羽織りながら言った。「我慢くらべなら、君のお父さんに負けないさ。それじゃあ」 田中は手を挙げた。
波木は無言のまま、右手を挙げて田中に応えた。
「ありがとうございます」 真理子は帰っていく田中校長に頭を下げた。

速見が波木に言った。
「明日の準備のお手伝いをしたいと思いまして」
「それは、ありがたい。夕方、会社や学校が終わってからみんな集まってくる。それから準備を始めようと思うんだ。平和台高校の生徒は、今日は開校記念日で休みだから早めに来るかもしれないが・・・。真理子、まだ家でゆっくりしていたらどうだ?」

「私は企画担当ですからね。いろいろやることがあるのよ。お父さんの知らない苦労がね」
「苦労ばかりかけて済まないね」波木が皮肉る。
「お父さん、速見さんに、この校舎を見学させてあげて。平和台村の文化財なんだから。何か発見があるかもよ」
「お前は心配しなくていいから・・・準備があるなら、さっさと済ませてきなさい」
「それじゃあね」 真理子は速見に手を振ると、部屋を出て行った。

速見は教材クラブの講義(教材発表)が行われる教室に入ると、壁に貼ってあるいろいろな掲示物を眺めている。
「いろいろなことが、書いてありますね。これは、和歌ですか?・・・」
「うん?どれかな」
「問いかけて 問いかけぬいて 最終の
      問いかけみれば 答えなりけり ・・・ これは?」
波木が説明する。
「KS論(ケイエス論)といってね、"教材作家とは何か"ということについて、意見を出し合うのさ。教材作家の数だけ、KS論の数がある。みんな定義が違うのさ」
「KS論というのは、教材作家論のことですね」
「そうそう。教材作家といっても、所詮はアマチュア好学士、単なる勉強好き。宿題もテストも嫌いなくせに、自分が気に入った学問をどんどん深めていく ・・・
与えられた課題ではないから、答えがない。
出題者がいないから、出題者が用意した模範解答というものがないのさ。
答えは自分が納得いくまで探し続けるしかない。
この歌はね、教材作家にとって答えとは何か、ということについての一つの考えだよ。問いかけの質を向上させていくと、最新の問いかけの中に、最初の問いかけの答えが含まれていた、というありふれた驚きを詠んだものだ。ありふれているが、いつも新鮮な驚きが待っているものだからね」

「これはどういう意味でしょう。
 "テストで良い成績を取って、親に褒められたいと思う者は、教材作家にはいない。"
これもKS論ですか?」
波木は面白そうに笑って答えた。
「中学、高校生のためのKS論だなあ。異論もあるがね。人それぞれ、好き勝手なことを言い合って、教材作家の輪郭ができてくる。しかしその輪郭は固まる前に、また形を変える。君が教材作家について何か意見を言う。すると、KS論がまた一つ大きくなるのさ」

「会長さん」 タケシが教室に入ってきた。その後ろに健一と美奈子が続く。
「落合教材クラブの渡辺美奈子さんと、伊藤健一君です」
「はじめまして、渡辺です」
「伊藤健一です」
二人は波木に挨拶をした。
「よく来てくれたね。平和台クラブ会長の波木です。
落合クラブの大会では、うちのタケシがお世話になりました。
この平和台では、タケシがお世話をしたいと張り切っていますから…。そうだよな、タケシ」
「はい、東京では健一君の家に泊めてもらったので…。
平和台ではうちに泊まってもらいます」
「そうか」波木は満足そうに頷いた。それから健一に向かって言った。
「何でもタケシに相談してください。こう見えてもタケシはなかなかしっかり者ですから」
「会長さん、こう見えても…は余計ですよ」
「ハハハ、失礼」

波木は横に立つ速見を紹介した。「それから彼は、速見さん。第三世界の教育支援活動のために、大学から海外に派遣されている。現地の報告のために昨日戻ったばかりだ。また日本を離れるんだよね」速見に言った。
「ええ。半月ほどで、また行きます」
波木は健一達に言った。「速見君の教材発表は、今年の教材まつりのテーマの一つなんだよ。えーっと、正七角形の作図法、角の七等分だ」
「え?」美奈子は驚きの声をあげた。「それはすごいですね・・・」
「それから娘の真理子を紹介しよう。いま平和台中学校で英語の教員をやっています。おおい、真理子」
別室から「いま行きます」という声が聞こえる。
「真理子が明日の教材まつりの企画担当です。私や真理子も、健一君、美奈子さんのお世話をさせてもらいます」
「何?お父さん」
「落合教材クラブの渡辺美奈子さんと、伊藤健一君だ」
「はじめまして、波木真理子です」
健一は、笑顔を浮かべた真理子の表情を見て、大変な驚きのために言葉を失った。そして、やっとのことで「よろしくお願いします」と言って頭を下げた。
美奈子は、その健一の反応に、普段の健一とは何か違うものを感じ取った。
タケシは、真理子と健一の二人の表情を見比べて、自分の予想が当たったとでも言いたそうな、何やら得意顔だ。

(第2話 終)