<第6話>

校舎の東半分、公民館側の出口の外に、古びた木製のベンチがある。
浜崎がそこで弁当の包みを開き、遅い昼食を取っていると、男が一人歩いてきた。

うつむき加減に何やら悩んでいるような表情で、ベンチに座る浜崎の前を通り過ぎると、
「やっぱり、やめとくか」といってため息をついた。
男は引き返そうとするが、やって来たもう一人の男に呼び止められる。
「どうした。ここまで来たんだ。会長さんに話したらどうだ?」
「いや、自分たちがここに来ると、また教材クラブに迷惑がかかるかも知れない」
「一言おわびをするだけだ。ためらうことはない。さあ、行こう」
二人は校舎の西側へ向かって歩き出した。

浜崎は水筒のコップでお茶を飲む。
すると、丸刈り頭の小さな男の子がじっとこちらを見ているのに気がついた。
浜崎は男の子を見て微笑むと、「こっちへいらっしゃい」と手招きした。
しかし、男の子は離れて立ったまま動こうとしない。
なお手招きすると、男の子は首を振った。

にぎやかな集団が、校舎の廊下を通り過ぎようとして、急に立ち止まる。
廊下の前方に人の気配があるらしく、五人の男の子たちが、そちら側を注視している。
「知らない顔ばかりだ」
「なんだか、怖そうだなあ」
「あそこで何をしているんだ?」他の子供より頭一つ背が高い、親分格の慶太がいう。
一番前の子が一歩前へ出て、首を伸ばす。
「よし、偵察に行って来い」
慶太がいうと、その男の子は走って行った。

男の子たちの後ろから、上級生の女の子が二人やってくる。
「タケル、縄跳びに入れてあげるからおいで」
五人の男の子たちの中で一番背の低いタケルがいう。
「ぼく、お姉ちゃんたちとは遊ばない」
「もうこれから仲間に入れてあげないよ」
姉は怒って廊下を戻ろうとする。
「あ、おばちゃん」タケルは浜崎に気がつくと、校舎から走って出てきた。

二人の女の子と、丸刈り頭の男の子も走ってきて、浜崎の横に立った。
「おばちゃん、さっきはお薬つけてくれてありがとう」
「いいえ。どういたしまして」浜崎は子供たち一人一人の表情をにこやかに見た。

「おばちゃん、おにぎり食べてるの?」タケルがいう。
「そうよ。みんなも食べる?あと二つしかないけど、半分ずつ分けて」
「ぼく、いらない。じゃあね」タケルは身を翻すと、慶太の許へ走っていった。
丸刈り頭の男の子は、にっこり笑うと、おにぎりを一個、包みから手に取って、早速食べはじめた。
「あなたたちも、どうぞ」浜崎がいうと、タケルの姉が軽く会釈をして、最後の一個を取った。
女の子二人で分けあって食べる。
「私、おにぎり、得意なのよ」
「ほんと、おいしい!」女の子たちは、顔を見合わせて驚く。
丸刈り頭の男の子も、頬をふくらませて、おいしそうに食べている。

慶太の横に立っていた二人の男の子が走ってきて、丸刈り頭の男の子と並んで立つ。
「あ、君たちには今度作ってきてあげるわね。もう、なくなっちゃったのよ」
二人の男の子は、慶太の許へ走って戻る。
慶太は無表情のままこちらを見たが、また前方を注視する姿勢に戻った。

「偵察に行ってきました」
男の子が走って戻ってくる。
「どうだった?」
「たぶん、木造校舎を壊しに来た人たちだと思う」
「やっぱりそうか」慶太は腕組みをして前方をにらみつける。
「でも、みんな怖そうな顔をしているよ」
「え〜」慶太を除く子供たちが声をそろえていう。

浜崎は、「どれどれ?」といいながら慶太たちの近くに寄ると、前方を遠目に見た。
「本当だ。怖そうな人たちねえ」浜崎はニコニコしながらいう。

「ねえ、おばちゃん。私の絵が向こうの教室に貼ってあるの」タケルの姉がいう。
「どこ?見せて」
「こっち」
二人の女の子は、浜崎の手を引いて他の教室へ行った。

「あいつらが、こっちへ来る!」子供たちは後ろへ逃げ戻ろうとする。
「だめだ!」慶太がいう。「前へ行くんだ。いいか!・・・大声を出しながら、正面突破だ。いくぞ!」
慶太を先頭に、五人の男の子たちが大声を上げながら走り出す。
「うおおおおお・・・・・」

「なんだこいつら!」
慶太とぶつかりそうになった松五郎は、あわてて身をかわした。
男たちの集団の真ん中を、矢のように通り過ぎる子供たちの一番うしろから、すこし遅めの子供がついてくる。
松五郎はタケルの腕をつかんで止めると、顔を近づけて怖そうににらんだ。
「こら、廊下を走るんじゃあない」
慶太は急いで戻ってくると、少し離れた位置で身構えながら、じっと様子を見ている。
タケルは松五郎に顔を近づけると、小さな体から信じられないくらいの大声を出した。
「ぎゃあああああ・・・・・」
驚いた松五郎が身を怯ませた隙に、タケルはその場を離れると、待っていた慶太と一緒に走って行った。

「まったく、最近の子供は、教育がなっとらん」
膨れっ面の松五郎を、奥田の後ろを歩く三人の部下たちが、ニヤニヤ笑って見ている。
奥田は丹波社長と並んで歩き、先ほどから何やら話し込んでいる。
「どうしても無理だというのかね。奥田君らしくないじゃあないか」
「しかし丹波社長、十日後までに校舎の取り壊しを完了するというのは、・・・」

校舎の西側から、若い男が歩いて来るのに、松五郎が気がついた。
「奥田のアニキ、ゲンのやつ来ましたぜ。・・・ヨオ!元気かい? インテリ ゲンちゃん」
ゲンはムッとした表情を浮かべた。
「松っあん、そういう呼び方はやめてくださいって言っているでしょ?」
ゲンは奥田に頭を下げる。
「ゲンよ、教材クラブの様子はどうだ?」
「速見という男が、海外から戻ったようです」
「第1の問題を解く男だな?」
「ええ。それから、第2の問題を解く男も到着しています。体の大きな男で、他の教材クラブから出張講義で来ています」
「第3の問題を解く人間は決まったのか?」
「結局、決まらなかったようです」
「手も足も出ねえか?」
薄笑いを浮かべる奥田の周囲で、松五郎はじめ部下たちが笑う。
丹波社長は、黙って話を聞いている。
奥田がいう。
「それで、ギリシアの三大問題をテーマにうたいながら、教材まつりでは一問足りないわけだな?」
「それがよほど悔しいようで、高校生に問題の紹介のみ担当させて、三大問題を扱ったことにするそうです」
「高校生になあ・・・」松五郎が呆れたようにいう。

「悔しければ、解かせてみればいい」丹波社長が口を開いた。
「イベントをやるというから、立ち退きを待ってやっているんだ。
解けないのであれば、イベント計画は失敗だ。まつりを取りやめ、早急にここを立ち退け。
そういってやるんだ」

「学童クラブはどうなります?」松五郎がいう。
この質問には奥田が答えた。
「この校舎は、教材クラブ名義で借りられている。教材クラブの移転先へ、学童クラブもついていくことになる」

「もし解けたら、どうなります?」
松五郎の質問に、「しつこいやつだなあ」と奥田はいいつつ、ゲンに話を向ける。
「どうなんだ?ゲン、解けそうなのか?」

「ギリシアの三大作図問題は、十九世紀に作図が不可能であることが証明されています。
これは作図のための厳格なルールがあるからで、ルールが緩められれば、作図は不可能ではありません」
「そのルールというのは?」丹波社長が訊ねた。
「二つのルールについて、教材まつりのチラシに説明が書かれているのですが、・・・」
ゲンがズボンのポケットからチラシを取り出して読む。
「ルールA。教材のきまり。教材は定規とコンパス以外を使ってはならない。
ルールB。使い方のきまり。定規とコンパスは、作図の公準に従い、有限の回数だけ使わなければならない。
たとえば、三角定規を二枚使って平行線を引くような使い方は禁止される」
ゲンが顔をあげる。
「今度の教材まつりでは、このルールA、Bがなくなります。
教材作家はアマチュア好学士であってアマチュア数学者ではないので、このルールA、ルールBを取り外したらどのような面白い講義ができるかということに関心があるのです」
「これは学術的に意味のある講義なのかね?」
「おそらく、教材作家の講義内容をテストで書いても、1点にもならず、趣味であって職業ではないため、1円にもならないでしょう」
「1点にも1円にもならない事に、真剣に取り組む意義があるのかね?」丹波社長が笑いながらいう。
「彼らがいうには、自分たちの講義を聞いた誰かが、数学の面白さに目覚め、そして将来、本物の数学者になってくれれば、教材作家冥利に尽きる・・・そんなことを言っています」

「おめでたい人間たちだ。」丹波社長は呆れたように言った。
「そしてルールA、ルールBという制約を取り外しても、彼らに第三の問題は解けそうにないのだな?」
「おそらく、解けないでしょう」

「彼らに言ってやれ。もし解けたら、工場建設は中止すると」
「え!」松五郎が思わず声を上げる。
奥田は驚きの表情を浮かべた。
丹波は続ける。
「もし解けなければ、あるいは解けないことが確定したら、ただちにこの校舎の解体工事を開始する。そう言ってやれ」

丹波社長の言葉に、奥田と、五人の部下たちは沈黙した。
しばらくして奥田が口をひらく。
「ゲンよ。教材クラブの関係者が、今日は集まるのだったな」
「はい」
「お前は、クラブに戻っていろ。われわれは後から行く」
「わかりました」
ゲンがその場を離れる。

丹波社長が、ゆっくり歩き始める。奥田たちも、その後に従う。
「奥田君、この土地に工場を作るのはわが社ではない。君の会社、平和台開発が作るのだ。
いいね。工場は、開発業者である君が作るのだよ」
「はい」奥田が神妙に答える。
「君は箱をつくる。私はその箱を買うだけだ。
したがって、箱が出来上がるまでの事は、わが社とは一切関係がない」
「・・・・・」
「いま我々の関連会社が、すでに工事関係業務で動いているが、
君の会社の下請けとして動いていることにしよう。いいかね?」
「わかりました」奥田は頭を下げた。

「君に前金として渡してある金が、どういう動きをしているか、…
どこの誰に渡っているか…、私は一切知らない。
君が勝手に動かしているだけだ。そうだね?」
「おっしゃるとおりです」

「君は高いリスクを負う。したがって、そのリスクに見合う報酬を要求する権利がある」
丹波社長は奥田を振り返る。
「その報酬を、受け取りたまえ!
わが社の未来の株主たちが、その報酬を支払ってくれるだろう」
丹波社長はそういうと、高笑いをした。

<第6話 終>