<第18話> パイのはなし 円周率と経済のパイ


「しーっ、来たぞ」
「来た、来た」
「うわー、でっけー」
木造校舎の床板をきしませて歩きながら、ふと立ち止まって振り返った安藤は、教室の扉の陰から見上げている子供たちと目が合うと、にっこり笑った。
子供たちは、あわてて顔を引っ込めた。



シャカルタの手伝いが終わったあとの休憩時間に、健一は大勢の大人や子供たちでにぎわう木造校舎の中を歩きながら、教材作家の一人に声をかけた。
「安藤さんを見ませんでした?」
「安藤さん?ああ、あの大きな人ね。今日は見ていないな」

健一は、校舎の外に出ると、平和台村役場の早川を見つけた。
「あ、早川さん、安藤さんはどこか知りませんか?」
「安藤さんなら、さっき健一君を探していたよ。君がシャカルタの手伝いをしているとは知らなかったものだから。
安藤さんは次の教材講義の担当だから、もう別室で準備をしているよ。終わってから話せばいい」

「そうですか。…あの、早川さんは安藤さんを以前から知っているのですか?」
「大学の先輩でね。卒業して15年になるけれど、今でもたまに顔を合わせるよ」
「安藤さんはどういう人なのですか?」
「元は科学者でね、大学の講師をしていたけれども、些細なことから大学側と行き違いがあって辞めたんだ。
主任教授は大学に残るように勧めたらしいが・・・
あの人も温厚そうに見えて、根は頑固だからなあ」

「それで、今は何をされているのですか?」
「全国を放浪しているんだよ」
「ホウロウ?」

「ハハハ、安藤さんは、地元で一番大きな旅館の一人息子でね、市場調査という名目で全国を回っている。
旅館は奥さんと両親に任せっきりだ。
理科系の人だけど、大学を退官してからは地方自治にも興味をもってね。
健一君が知りたがっている行政派遣も、元は安藤さんと地元の青年団の人たちとのアイデアだ」


健一が言った。「行政派遣は、会社や団体どうしで社員を派遣させ合うしくみでしたよね。どうして青年団の人たちがそれを思いついたのですか?」
「歩きながら話そうか」早川はそう言うと、健一と一緒に歩き始めた。
まつりの屋台が並ぶ木造校舎の南側は、食べ物やおもちゃを買い求める子供や大人たちでにぎわっていた。
シャカルタや曜日あて七段のゲームコーナーに集まっている子供たちの横では、1等から5等までの景品や参加賞などがテーブルの上に並べられている。


早川は行政派遣について話し始めた。
「安藤さんの地元では、茶碗などの焼き物が盛んだ。
ところがあと継ぎがいなくて、高齢者ばかりになって店を閉めようとしているところが増えた。
それを何とか維持できないかと考えたのが、行政派遣だ。

青年団からの提案を行政側が受け入れて、一般企業や団体から、正社員を交代で店に派遣して焼き物の技術を学ばせた。
店ごとに特色ある焼き物の技術が、後継者不足で消えてなくなるのはもったいないからね。
その焼き物を、村が派遣コストを乗せない金額で一括して買い上げて市場で売却し、そこで得られたお金を、企業や団体に正社員派遣料として支払ったのだ。

行政派遣は、元々は消えていく産業や技術を継承するための政策だったけれど、時期的に社員が過剰になったり不足したりする会社や団体にとっても、退職を伴わない雇用調整のための安全弁として、なくてはならない制度になった。
社員は辞めさせず、地場産業や教育団体、福祉団体などからの依頼や本人の希望に応じて派遣して、派遣料収入を得て人件費に充当する。正社員は、会社の外部でも生活に密着した実用的なさまざまな研修が受けられる。
景気が回復して忙しくなったら、派遣に出している社員を呼び戻す。

この制度は人々に所得と安心を与えるから、需要増加につながる。
その運営を実際に行うのは、会社の総務部や人事部など管理部門だ。
経理部門ではすでに源泉税や社会保険料徴収、地方税の特別徴収などで行政事務の一部を代行してもらっているけれど、管理部門でもそれをやってもらいたいんだ。
それは労働行政機関と民間の派遣会社が担ってきた、社会的にとても重要な業務だ。

行政派遣によって退職者が減少すれば、労働行政機関の施設や人員の一部を、企業や団体の管理部門と連携する行政派遣事務にシフトできるだろう。
現在の民間の派遣会社は、税理士や社労士事務所のような専門家集団となって、その行政派遣事務をサポートする業務が増えるだろう。


いま企業の管理部門が持つ情報処理能力は、電子機器の普及や技術研修の充実で、物的人的能力とも非常に高くなっている。
その能力は、自社のためだけでなく、社会全体のために使ってもらいたいんだ。
平和台村の企業や団体の管理部門には、行政の仕事の一部を引き受けてもらいたい。
雇用安定、需要増加という仕事だ。

民間企業の管理部門が需要の種をまき、製造部門や営業部門がそれを刈り取る。
不況になれば人件費削減、営業力強化ばかり言われるけれど、それは種をまかずに刈り取れと言っているようなものだ。
よほど強い者にしか、その実現は不可能だと思う。

これから安藤さんによる"円周率のパイ"についての講義が始まるだろう?
行政派遣は、円周率という"数学のパイ"ではなく、"経済のパイ"である需要の減少をくい止め、それをさらに大きく育てようという政策だ。
パイの奪い合いばかりしていたら、このままでは需要全体が小さくなる一方だと思う」


「平和台村は、どうして行政派遣を採用したのですか?」健一は早川を見て言った。

「この村では、会社を辞めた人間はどうすると思う?
ほとんどの人は村での再就職を考えず、都市部へ出て行ってしまう。村へは帰って来なくなる。
だから社員を辞めさせなくても会社が存続できるための政策が、村としては絶対に必要なんだ。
それこそ平和台村が行政派遣制度を採用した一番の理由だよ。

採用した理由はほかにもある。
平和台村のあちこちで住宅建設が行われているのは、君も見ただろう?
あれは近隣の都市部から行政派遣社員を受け入れるための住宅だ。
半年から1年、都会の人々に、都市部の正社員としての身分はそのままで、この村で農業や酪農などに従事してもらう。
新しい住宅ばかりではなく、人が住まなくなった農業家屋も、村で買い取って急いで修復中だ。
そういう家に住みたいと思う都会人もいるからね。

計画中の村の宿泊施設やレジャー施設では、従業員の半数以上を都市部からの行政派遣でまかないたいと思っている。
そうすれば設備やみやげ物など、都会のニーズがすぐに反映されるようになるだろう。
この村を都会の人と一緒に作って行くことができれば、村に愛着を感じ、知り合いを村に招待したいと思う都会人も増えるだろう。
将来はこの村に定住して、やりたい産業に従事したいと思う人もきっと出てくる。

この木造校舎の敷地には工場の建設が予定されているけれど、新しい工場は行政派遣認定企業となることが決まっている。
認定されることは、地元貢献と信頼の証だ。
人事部長の山崎さんが行政派遣担当主任者としての資格を取って、行政機関である村役場と連携して平和台村の雇用安定に協力してくれることになっているんだ」


早川は歩きながら、健一を見て言った。
「だから健一君、村には工場が必要なんだ。

君がデロスの問題を解いたら、工場建設は中止になるって本当かい?」
早川は笑いながら言った。
「波木会長たちは環境問題のことを心配しているようだけど、僕は工場の人たちを信頼しているよ。
工場ができれば、平和台村はもっとよくなる。僕はそう信じている」

健一は歩く足元に視線を落としたまま、何も言うことができなかった。



三人の小さな子供たちが、木造校舎の廊下をこっそりと、安藤の姿を追いかけた。
それぞれの右手には、紙をまるめてテープでとめた白いボールを握っている。
いちばん後ろの子供は、その紙ボールが沢山入った袋を持っている。
「当てても怒らないかな?」
「しーっ、静かに」

廊下の角から三人が見ていると、安藤は教室の扉を開けてその中へ入った。
三人は教室の扉まで駆け寄り、そっと中をのぞくと、そこに集まっていた大勢の人々から拍手が沸き起こった。
「逃げろ!」
子供たちは、あわてて廊下を走って逃げた。



「私は安藤といいます。私の趣味は旅行やウォーキング、そして教材クラブのバッジを集めることです。
私の胸にたくさん付いているでしょう?
これまで講義をさせていただいた教材クラブの教材作家認定バッジです。
今回は、平和台教材クラブさんのバッジをいただけることを楽しみにして参りました。
どうぞよろしくお願いします。

さて、私が所属しておりますのが、地元の教材クラブとウォーキングクラブです。
私はそれぞれのメンバーを、参加人数を増やすために、一つにまとめたいと考えました。
そして作りましたのが、これからお話ししますパイ・ウォーキングです。
パイとは数学の教科書に出てくる円周率のことです。
これは円周率とウォーキングを合体させてできた、とても健康的な教材です。
ではお話ししましょう。


まず、1億キロメートルという距離について考えてみます。
私が手に持っておりますのは、単3電池です。
テレビのリモコンの裏蓋を開けると、2本並んでいることがありますね。
この電池のマイナス極の丸い部分、円周は約4センチです。この大きさを一周4万キロメートルの地球だと考えてみましょう。

後ろの人は見えませんか?小さいので想像してみてください。
この電池を運動場に持って行きます。
100メートル走のスタートラインに、この電池の丸い部分が見えるように置いてみます。
この電池の丸い部分を地球の大きさとしたとき、1億キロメートル先は、100メートル走のゴールライン地点です。

地球と太陽の距離は1億5千万キロメートルですから、今のたとえではさらに50メートルを加えた150メートル先です。
そして太陽の直径は地球の約109倍ですね。
スタートラインにある単3電池の丸い部分ほどの地球から150メートル離れた地点に、身長140センチ足らずの子供が両手を広げて立っている。
それが地球と太陽の位置と大きさの関係であると言っていいでしょう。

地球にたとえられた単3電池の丸い部分が、遠くに小さく見える太陽役の子供の周りを、150メートルの距離を保ったまま、一年をかけて1周する。直径300メートル、1周約1000メートルです。
考えてみれば、地球はものすごい速さで太陽の周りを動いているのですね。

地球が太陽の周囲を1年がかりで描く円、正確に言えば楕円ですが、この円を地球の公転軌道と言いますね。その直径はおよそ3億キロメートル、1周10億キロメートルです。
地球を単3電池ほどの大きさにたとえたときに、それが移動しながら描かれる直径300メートル、1周約1000メートルの円です。
とても巨大な円ですが、さそり座の赤い目玉と歌われたアンタレスという星は、地球が太陽の周囲を回るその公転軌道よりも大きいそうです。信じられない大きさですね。
でもさらに、オリオンの左肩に光るベテルギウスという星は、アンタレスの数倍大きいそうです。
どうでしょう、地球を単3電池の丸い部分にたとえたときに、ドーム球場よりも大きいのでしょうか。
私の想像を超えてしまったので、話をもとに戻しましょう。


パイ・ウォーキングで歩く距離は、円周率を直線に直したときに生じる誤差を基準にしています。
5世紀に祖沖之という人が、円周率を直線で表すときに精度の高い分数を発見しました。
113分の355という数字で、分子を分母で割ってみると、3.14159292035…となります。

100メートル走のスタートラインに置いた単3電池の丸い部分を地球にたとえたとき、ゴールラインまでの距離が1億キロメートルでしたね。直径1億キロメートルの円周は、円周率は 3.14159265358979…と続きますから、
3億1415万9265キロメートル358メートル97センチ9ミリですね。

これを直線に直すために113分の355という分数を使うと、それは3.14159292035398…と続きますから、
3億1415万9292キロメートル35メートル39センチ8ミリです。

その誤差は、26キロメートル676メートル41センチ9ミリです。
分数で求めた直線距離は、実際の円周より、26.7キロメートル長くなります。
だからこの誤差をどうするかという問題が生まれます。


誤差がなくなれば、”円と同じ面積の正方形を作図しなさい” という、ギリシアの三大作図不可能問題の一つである ”円積問題” も解決できるからです。
その問題を解決できたらすばらしいですね。
でも、円積問題は数学的には解決できないことが数学者によって証明されています。
どうしますか?


歩きましょう!
それが パイ・ウォーキングです。
数学的にどうしても解決できない部分は、人間が汗をかいて補うしかないじゃないですか!

パイ・ウォーキングで一番大切なこと、それは楽しむことです。アホらしいと思ったら、効果は半減しますからね。



私がある教材クラブでの講義が決ったとき、私は最も健康にいい教材としてパイ・ウォーキングをやってみようと考えました。
私はいろんな教材クラブでパイ・ウォーキングを紹介しましたから、そのクラブの人たちはパイ・ウォーキングが何なのか知っていました。
そして誰が26キロメートルを歩くのかということが問題となりまして、ある二人の中学生が "安藤と一緒に歩け" ということになったのです。

二人の中学生は困ってしまった。
26キロなんて歩くのはいやだ。何とかして距離を縮められないだろうか、と考えたのです。
そこで情報処理の学校に通っている近所の兄さんに相談して、表計算ソフトを使って、円周率にもっと近い分数を探そうとしたのです。
けた数を増やすと作図しにくくなるので、ルートを使おうと考えました。
そして計算できたのが、この分数です。



分子が、(ルート5405)。
それを分母の、(ルート37)+(ルート73)+(ルート77)で割った数字は、3.14159265233598…と続きますから、この分数を使って直径1億キロメートルの円周の長さをを計算すると、3億1415万9265キロメートル233メートル59センチ8ミリです。

実際の3億1415万9265キロメートル358メートル97センチ9ミリと比べると、その誤差は、およそ125メートルです。
中学生は喜んで私に電話をかけて来ました。

"パイ・ウォーキングで、安藤さんと一緒に125メートル歩くのが楽しみです!"

私は困ってしまいました。
パイ・ウォーキングは健康的な教材だと言っているのに、125メートルでは少々足りないのではないかと思ったからです。
それで "(ルート5405)をノートに作図できるかい? 作図できる分数なら認めよう" と私は言いました。

中学生たちはさらに考えましたが、うまくいかない。
それで私はヒントとして、ルートの中の数字は0から99までの数字で、



という形をしていれば、作図は可能だろうと言いました。

中学生たちは再び近所の兄さんに相談して、パソコンを使って何時間も試行錯誤しながら、ようやくこの分数を見つけました。



直径1億キロメートルの円周を直線に直すためにこの分数を使うと、実際の円周との誤差は、およそ1.45キロメートルになります。
徒歩1時間を約4キロとすると、1.45キロメートルの3倍の4.35キロメートル位が、パイ・ウォーキングの標準値として適当でしょうか。
これは直径1億キロメートルの3倍、つまり直径3億キロメートルの円周を考えたことになりますから、地球が1年かけて太陽の周囲をまわる公転軌道約10億キロメートルに匹敵する円周距離を、この分数を使って直線距離に直した場合に生じる誤差です。

計算すると、およそ (3.14159266809−3.14159265359)×3億km = 4.35km  となります。

この4.35キロメートルを、今後はパイ・ウォーキングの標準距離数としたいと思います。

今朝は七名の方にお集まりいただき、平和台牧場まで4.35キロメートルのパイ・ウォーキングに行ってまいりました。
いちばん前の席に座っているニ名の中学生も参加してくれました。

これから二人に、この分数を使ったパイ座標という教材を書いてもらいます。
そのためには平方根の作図法を使います。
それからその座標の中に、円を書き、その円と同じ面積の正方形を作図してもらいます。
もちろんその作図法には、数学上の誤差が生じています。
しかし彼らは今朝、その誤差を補うために、4.35キロメートルを歩いて汗をかいてきました。
それでは二人にやってもらいましょう」

安藤と二人の中学生は、平方根の作図と、円積問題に関する作図法の実演を始めた。




逃げて行った三人の子供たちは、こんどは安藤が教材講義をしている教室の後ろ側からこっそり入って来た。
知っている顔の人間はいないかと探していると、席に座って講義を聴いている高校3年生のシゲルの横顔が見えた。
見つけた子供は、小声で「いたぞ!」と仲間に合図を送ると、立っている人々の隙間を通るように白い紙のボールを軽く投げた。
それはシゲルの肩に当って落ちた。
「しーっ!あっちへ行け」

笑いをこらえたような顔をして子供たちが急いで教室の外に出ると、隣の教室には高山と雅恵の姿が見えた。
「あ、先生だ」 三人の子供は、つま先立ちで廊下の窓から中を見た。


音楽教師の雅恵は、星座のうたの伴奏用楽譜に最後の手直しをしている。
横の椅子に座ってその姿を見ていた高山は、申し訳なさそうに雅恵に言った。
「雅恵さんには、本当に感謝しているよ。星座のうたにピアノ伴奏をつけてくれたり、楽譜にしてくれたり。
君がいなかったら、子供たちの合唱を聴くこともできなかった。
君にも、歌を練習してくれた子供たちにも、僕は感謝している。

波木会長は、工場側の責任者との連絡が取れないらしい。
姿も見せず、電話にも出ないなんて、どういうつもりなんだろう。このままでは歌の発表はできない。

ありがとう。もうこれで充分だ。
会長に話しておくよ。歌を取りやめたいって。
楽譜も書けない人間が、教材まつりで曲を発表しようなんて、とうてい無理だったんだ」


「朝からずっとそのことを考えていたのね。何か悩んでいるようだったけれど」
雅恵は楽譜を閉じると、高山を見て言った。
「あなたは楽譜を書けなくてもいいの。ピアノを弾けなくてもいい。
それに、子供たちはあなたの代わりにとても上手に歌えるでしょ? あなたは歌わなくてもいいの。

子供たちが頑張って練習したのは、どうしてかしら?
僕は満足だ、もう歌わなくていいなんて言われても、子供たちはその言葉を信じるかしら?」



教室の中を見ているつま先立ちの三人の後ろから、廊下を歩いてきた慶太が小声で言った。
「お前たち、なにをやっているんだ?」

慶太がこっちへ来いというしぐさをしたので、三人の子供は慶太の後を追いかけた。
「何やるの?」
「歌の準備だ。講義が終わったら、椅子を並べる。」
「座って歌うの?」
「後ろの生徒が椅子の上に立つのさ。みんなの顔が会場の人から見えるように」



雅恵は高山に言った。
「あなたがうれしいとき、子供たちもうれしい思いがしたいの。あなたがつらいとき、子供たちもつらい思いがしたいの。
どうしてかしら?あなたはそれを考えたことある?
だから、もう充分だ、歌わなくてもいいなんて、子供たちに言わないで」



安藤の講義は、終盤に差しかかっていた。
「円積問題の数学的解答は不可能ですが、技術的な解答は可能だと思います。
なぜならそれは、精度の問題だからです。



私は今回、中学生たちと同じように、ルートを使ったこの形だけを調べて、円周率の近似値を探してみましたが、ほかの形を調べたわけではありません。分子は3つの無理数を加え、分母は1つだけです。この数を増やした場合については調べていません。
円周率の近似値としてノートに作図可能で、もっと精度の高い分数がみつかったら教えてください。



教材作家にとって教材とは、人に教えるための材というよりも、自分が教わるための材だと思います。
自分が作ったもの、作りかけのものが、自分にいろんなことを教え、楽しませてくれる。
そしてその教材が、ほかの人々も楽しませることができたならば、さらにうれしいことでしょう。

教材講義の全てがインターネットで公開されるとは限らない。
そういう技術を持たない教材クラブへは、出かけて行って過去の講義資料を見せてもらうしかない。
その地方特有の教材というものがあると思います。

平和台村で実験的に行われている行政派遣は、後継者がいなくて消えそうな技術を、他の会社や団体から人材を交代で派遣して伝えていこうという意義もありますね。教材クラブによく似ています。

教材クラブは、がらくたのオモチャ箱だと言う人もいます。
科学的な専門的な分析力よりも、ここでは教材制作のためには常識と直観さえあればいいという、人間的な生活上の楽しみや生き方のほうが大切にされているからです。
今は埃をかぶっている教材でも、いつの日か発見者が現れれば、たちまち意味が出てくるでしょう。

教材クラブには、そういう発見の楽しみのほかにも、その地方を訪れる楽しみ方、味わい方など参考にできる工夫がいっぱい詰まっています。
私はこれからも、そういう特色ある教材クラブを訪れたいと思っています。

最後になりましたが、今朝早くから、牧場までのパイ・ウォーキング4.35キロメートルを一緒に歩いてくださった方には、ご協力いただきありがとうございました。
牧場では、搾りたてのおいしい牛乳を飲ませてもらいました。
私はこの村が大好きなので、また訪問させていただきたいと思います。
どうもありがとうございました」



講義が終わり、安藤が教壇を下りると、かわりに高山が会場内に呼びかけた。
「いまから星座のうたの、合唱の準備をはじめます。しばらくお待ちください」
子供たちは椅子を持って教室に入って来ると、それを並べ始めた。

「ちょっと待った!」松五郎と、男たち五人が教室へ入ってきた。
「校舎への立ち入りはできなくなりました。みなさん、すみやかに退出してください」
男たちは子供たちから椅子を奪い取ると、片付けはじめた。

近くにいた早川が、松五郎に声をかけた。
「これから、子供たちが星座のうたの合唱をするはずですが」

「おや、あなたは村役場の方ですな?
教材まつりのプログラム終了後は、工事の打合せ、建物の調査のため、関係者以外校舎内への立ち入りは禁止。
この書面のとおり、村長からの許可も受けています」

安藤が言った。
「私は予定より30分早めに教材講義を終えたのです。子供たちが歌う時間は十分にあると思いますが」
「公式のプログラムには、歌のことなんて書いてありませんな」

高山が言う。「待ってもらうことはできないのでしょうか」
松五郎は意地悪く笑いながら言った。「決まりは守ってもらわなければいけません。
さあさあ、皆さんもお早く退出ねがいますよ」

一人の子供が椅子を手放そうとせず、男と引っ張り合いになっている。
「こら!放せ!」男が手荒く椅子を奪い取ると、子供はその勢いで飛ばされ、転倒した。
「何をするんだ!」思わず高山がその男につかみかかろうとすると、男たちは三人がかりで高山を取り押さえようとした。
「じたばたするな!この野郎!」
そのうちの一人が、右手の握りこぶしを振り上げて高山に殴りかかろうとした。

その右腕を、安藤の大きな手のひらが、後ろから握った。
「いてててて」
「手荒な真似はやめろ」
安藤はそう言うと、男を高山から引き離した。

男は手を振りほどくと、にくらしそうに安藤を見上げてさけんだ。
「誰だ!熊をオリから出したやつは!」
「なにを? やるか!」

「よさないか!二人とも!」
教材クラブ会長の波木が二人の間に入った。
波木は男たち一人一人を見て言った。
「君たちの中で責任者は誰だ?話がしたい」

「責任者はまだ着いておりません」松五郎は大きなため息を一つ付くと、けだるそうに言った。
「この体の大きな兄さんの講義が終わったら、今日のまつりは終わり。そうしたら関係者以外は校舎の外に出せと。
あたしらは、その指示通りにやっているだけなんで」

「教材まつりは終わってはいない。歌う教材の発表がまだ残っている」
「聞いてませんねえ、そんなこと。責任者には、ちゃんと届けましたか?」
「教材まつりの責任者は私だ」
「まだわかっていないのかねえ。誰のおかげでこのまつりができていると思っているのか?」

松五郎は険しい表情で波木に言った。
「まつりがあるから、工事の着工を遅らせてやっているんでしょ?
着工は来週日曜日まで1週間待ってやっても、工事の打合せは進めますよ。
さあ、邪魔だから出て行ってくださいよ」
「30分も待てないというのか?」

「会長さん、もういいんです」
日頃は無口な音楽教師の雅恵が、ふるえる声で言った。
「子供たちは怖がっています。今にも泣き出しそうです。こんな状態で、歌えるわけがありません。
今度の日曜日にも、講義があると聞きました。その講義のあとに、星座のうたを、子供たちに歌わせてください」
雅恵は子供たちを見て言った。「みんな、いいわね」
子供たちはうなずいた。
「わかった。それでいいのだね?」波木が言った。
松五郎が口を挟んだ。
「責任者にちゃんと伝えましょう。あたしから伝えておきますよ。責任者にね」



「安藤さん、お話を聞かせてください」
校舎の外に出た安藤を、健一と美奈子が追いかけてきた。

安藤は振り返って言った。
「5時の列車で健一君も帰るのでしょう?その中でゆっくり話しましょう」
「いいえ…僕は村に残ろうと思うんです」

横から美奈子が言った。「お祖父さんには電話したの?」
「電話したよ」
「平和台に残っていいって?」
「だめだって。でも、僕はもう決めたんだ。自分のことは自分で決めるってお祖父さんに言った。

そうしたら、お祖父さん怒っちゃった。勝手にしろって電話を切られたよ。
僕はもう東京へは帰らない」
「何を言ってるの?」美奈子は強い口調で言った。

健一は美奈子には答えず、時間を惜しむように安藤に言った。
「安藤さん、もう帰られるのでしょ?
その前にデロスの問題の解法について教えていただきたいのですが」

「その事を、健一君と話したかったんです。
残念ながら私の解法は、特殊な定規を使うことによる解法で、学校で使うような一般の定規では作図できません。
私が健一君に言えることは、答えなんかどこにもないということです」

「どこにも?では、いったいどうすればいいのですか?」


「健一君はこれから一週間、この問題についてひたすら問い掛けることになるでしょう。
そして健一君が最後にたどり着いたことを発表すればいいのです。
それが健一君の答えです。教材作家たちはそれを待っているのです。

健一君がどうして東京へ帰らないのか、私には事情はわからないけれど、健一君のことを応援していますよ」


「…安藤さん、特殊な定規を使った解法について、資料が欲しいのですが」
「わかりました。送りましょう。
ただ、私はこれから用事があるので、家に戻るのは週の後半になりそうです」
「遅くなってもかまいません。内田さんたちも手伝ってくれるので、参考程度に教えてもらいたいのです」
「わかりました」

美奈子は納得がいかないような顔をして、「来週また迎えに来るから。お祖父さんには話しておくわ」と言った。
美奈子はその日の夕方、安藤と同じ列車で東京へ帰った。



星座のうたは演奏中止となり、がっかりしたように肩を落とした子供たちが廊下を歩いてきた。

喜三郎と二人の男が、ウサギ小屋に近いその窓の外側で屋台の後かたづけをしている。
「大将、この木箱どうします?」
「いま、車を取りにやっている。そのあたりに置いておけ。すぐ移動させるから。他の道具もここに集めよう」
木箱が数個、大人の背丈くらいの高さまで積み上げられた。
男たちは道具を取りに戻った。

中学生の四郎が、子供たちの様子をうかがいに、校舎の窓の外側をこっそりやって来た。
廊下を歩きながら泣いている女の子、なぐさめている子供、いらいらしながら言いあらそっている子供もいる。
「押すなよ!あやまれよ!」
「あやまるのはそっちだろ!」
二人の男の子が窓の内側の廊下を、ケンカをしながら控え室の方へ歩いて行く。

「へへ、気が立っていやがる」
四郎が面白そうに窓の内側をのぞいていると、四郎の肩が横に積んであった木箱にぶつかり、その一個が崩れかけた。
四郎はそれを見てニヤリと笑うと、それらを両手で力いっぱいに押し、逃げ去った。
積んである木箱やたて枠が次々に倒れ、大きな音とともにその横にあったウサギ小屋に崩れ落ちた。

喜三郎と作業をしていた男たちの一人が走ってきた。そして慶太も反対側から走ってきた。
その若い男はあわてて木箱を元に戻しながら、横にいる慶太に気がついて言った。
「お前がやったのか?」
「ちがう」
「お前じゃなければ、お前の仲間がやったに違いない。みんな気が立っていたからなあ」
「…」
慶太は足元をじっと見つめてそこに立っていた。

大人たちや子供たちも、木箱が崩れる大きな音を聞きつけて集まって来た。
「どうした?」
「誰かが木箱を倒したんだ」
「自然に倒れたんじゃないのか?積み方が悪くてさ」
「そんなことあるものか」喜三郎の部下が言う。「ちゃんと積んださ。間違いない。オレは確かめた」
「じゃあ、いったい誰が倒したんだ?」
大人たちは、下を向いたままそこに立っている慶太を取り巻くかたちになった。

「お前がやったのか?」
「…」
慶太は顔を上げて、そう言った男の顔をじっと見た。

「慶太、大丈夫か?」高山が走ってきた。「けがはないか?」
男たちの一人が言う。「先生、けが人はいないんですがね、箱の中の物がひどくやられてしまったんですよ」

高山が壊れた木箱の様子を調べていると、慶太の祖父が急いでやって来た。
「慶太!このバカモノが!」祖父は慶太の頭にいきなりゲンコツをくらわせた。
慶太は頭を両手で押さえてうなだれ、口を堅く結んだまま立っている。

祖父は周囲に集まった人々に頭を下げながら言った。
「みなさん、うちの孫がとんでもないことをしでかしました。大変申し訳ありません。深くお詫びいたします。
この子の父親は、遠くへ働きに出たまま帰って来ない。
私が父親代わりをしておりますが、なかなか目が行き届きません。
今後はもっと厳しく仕付けるようにいたしますので…」

「いいんですよ。もう済んだことだ」
喜三郎がゆっくり歩いて来て言った。

「私も見張りを一人残すなりしていれば、こんなことにはならなかったでしょう。
まあ、これからも長いお付き合いです。
なあ、慶太君」
喜三郎はそう言うと、慶太の肩をかるくたたいた。

「申し訳ありません」祖父は喜三郎に深々と頭を下げた。
慶太が唇を堅く結んで立ったままなので、祖父が慶太の頭に手をやり、無理にお辞儀をさせた。
喜三郎と男たちは、まつりのたて枠や木箱を抱えて帰って行った。


「ハナ、ハナ」
子供たちが口々にそう言いながら周囲を探している。

「子供たちは何を探しているんだ?」集まっていた大人たちが言う。
「ウサギがいなくなったらしい」
「あの小屋の中にいたのか?」
「壊れた隙間から逃げたようだ」
「もう暗くなってきた。藪の中に入っていたら見つからないだろう」

高山が子供たちに言った。
「もう暗いから足元が危険だ。明日の朝になってから探そう」

「何を言ってるの?」雅恵が怒ったように言う。
「ハナにもしものことがあったらどうするの?その懐中電灯を貸して。私が探してくる。慶太、一緒に来て」
他の子供たちも雅恵について行こうとした。
「佐藤先生…」
「みんなは危ないから来ちゃだめ」

「よし、俺達も探そう」
四五人の大人たちがうなずき合うと、手分けして探し始めた。

「あ、ハナだ」
健一がハナを両手に抱いて歩いてきた。
「よかった」
子供たちは大喜びで近寄ると、健一からハナを受け取り抱きかかえた。

健一は高山に言った。
「あそこの花壇の中に隠れていたんです」
「よく見つけてくれた。健一君、ありがとう」

高山はそれから慶太の方を見て言った。
「慶太、明日学校が終わったらウサギ小屋を修理したいんだけど、手伝ってくれないか?」
慶太は高山を見上げると、黙ってうなずいた。

<第18話 終>

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