<第22話> デロスの問題(立方体倍積問題)と立方根の作図

日曜日の朝は青空が広がった。

平和台クラブの教材作家たちは、早くから木造校舎に集まり、教材まつり最終日の会場となる大教室で最後の準備作業をしていた。
昨日のうちに集会室から二人掛けの細長いテーブルを移動させていた。
教壇に向かって中央に広い通路を取り、その両脇にテーブルを並べた。
教室の後ろ側には折りたたみ式のイスを並べ、左右の窓側は立ち見用のスペースを取った。

廊下や正面玄関周辺の準備をしていた波木が、大教室へ戻って来た。
教室の中で作業をしていた内田と山中が波木のもとへやって来た。
「申し訳ありません」
「君たちが謝ることはない。この一週間を生かし切れなかった私がいけないのだ」

波木は、こちらに歩いて来る高山に気がついた。
「高山君、残念だが、今日は歌の発表はできないだろう」
「わかっています」
「子供たちは、この教室には近づけないように。また騒ぎになると危険だ」
「はい」

「お父さん」真理子が小山と一緒に歩いて来た。
「最初の打ち合わせ通り、教材まつり最終日の今日は、私が進行を務めさせていただきますからね。
お父さんは口出ししないで」

「真理子」波木が大教室の中を見ながら言う。
「今日は会場の様子がいつもと違っていることに気が付いたか?」
席は前の方から、杖を持った老人や、赤ん坊を抱いた母親などが座り、中ほどに中学、高校生が座り、後ろの方では教材作家たちが座って話しをしている。
廊下側の窓に近い一番後ろのテーブル席には、松五郎が座って周囲の男たちにあれこれと指示を出している。
奥田の部下たちは、先ほどから教室を出たり入ったりしていた。

「今日の進行は、真理子に任せる。
だが後ろの男たちが騒ぎ出したら、教材まつりは中止だ」

波木は内田と山中に顔を向けた。
「そのとき内田君たちは、集まった人々を安全に外へ誘導してもらいたい。くれぐれもケガ人を出さないように」
「わかりました」

「真理子」波木は言った。
「私は健一君を見送りには行けないが、彼はこの一週間、木造校舎を守ってくれた。
今度はゆっくり遊びに来て欲しいと伝えてくれ」

「わかった。それじゃあ、行って来るわね」

波木が教室の中ほどへ入って行くと、山中が真理子に訊ねた。
「健一君は、ここへは来ないのですね」
「ええ」真理子はうなずいた。「彼が来たら、すぐ講義を始めなくてはいけなくなるわ。テレビ局が到着するまで、時間をかせぐ必要があるの」
「そうですか」
山中と内田は残念そうな表情を浮かべた。

真理子と小山は大教室を出た。
小山が廊下を歩きながら教室の中を見て言った。
「他の教材クラブからも受講に来ている。協会事務局の和田さんも来てるよ」
「あの、KS論を集めるのが好きだっていう人ね?」
「そう。ほら、あの人だよ」

協会事務局の和田が、平和台クラブのメンバーと話をしている。

「私はKS論を集めているのですが、教材作家ではない人の言葉でも、KS論になりそうなものがあったら書き留めておくのです。
たとえば七〇代の人の言葉を聴いて、いいなと思ったら書いておくのです。
そして自分が七〇代になったときに、それを読んでみようと思うのです。
今よりもっと深い認識を得るかもしれないし、全く違う認識を得るかもしれない。
それは私にとって、七〇代になるまでわからない楽しみですよ」

小山は、和田の近くに座って話しをしている三人を見て言った。
「東京の落合クラブからも三名来てるよ。健一君の講義がないことを知ったら、がっかりするだろうな・・・」
「小山さん!」

真理子は小声になって言った。
「声が大きいわよ」
「いけねえ」
小山は、周囲に奥田の部下がいないことを確かめると、人々が集まって来ている木造校舎を後にした。



タケシが自宅の階段を上って来て、健一がいる部屋のドアをノックした。
「健一、美奈子さんが迎えにきたぞ」

健一は木造校舎の会場へ行く準備を整え、真理子からもらったセーターを着て降りて来た。

健一が玄関の外に出ると、美奈子の後ろには、真理子と小山、そして慶太が立っていた。

美奈子は顔色がよくない健一をいたわる様に、やさしく声をかけた。
「落合学童クラブの子供たちがね、クリスマスツリーの星の飾りを、健一に作ってほしいんだって。
あなたじゃなきゃ、だめなのよ。
みんな待ってるわ。帰りましょう」

小山が言った。
「健一君、よくがんばってくれた。
波木会長は、健一君を見送りには来れないけれど、君が木造校舎を守ってくれたことを本当に感謝しておられる。
今度はゆっくり遊びに来て欲しいそうだ。
木造校舎のこと、平和台村のことが、君も気がかりだとは思うけれど、後のことは我々に任せてほしい。
平和台クラブのみんなも、健一君に感謝している。これに懲りず、またこの村に来てほしい」

真理子はきれいな包装紙に包まれたみやげの箱を健一に差し出した。
「これは、あなたのお祖父様とお祖母様に。
あなたをこの村に預けてくださったから」


真理子が差し出すその箱に視線を落とすと、衰弱した健一の目から涙が溢れ出た。
「あなたの願いを・・・かなえたかった・・・」

噛み潰すようにそう言って、深く頭を下げる健一の足元に、涙が流れ落ちた。

真理子は驚きととまどいの表情を浮かべ、小山や美奈子たちと顔を見合わせた。
そして、健一をここまで追いつめてしまっていたことを、健一に深く詫びた。

健一は帰り支度を済ませると、リュックを背負い、スポーツバッグを持ってタケシの家の玄関を出て来た。
そしてタケシの母にお世話になったお礼を言った。

小山が言う。
「健一君も知っている通り、奥田たちに君が帰ったことを知られるのはまずい。
本当は自動車で駅まで送りたいけれど、大通りは奥田の部下たちが見張っている。
健一君は、奥田たちに気付かれないように、美奈子さんと裏の歩道を通って駅に行って欲しい。
駅までの道は、慶太が案内する」

「わかりました」
健一は真理子と小山、そしてタケシに別れを告げた。

慶太は健一のスポーツバッグを持つと、健一と美奈子を案内して裏の歩道へ向った。



小山が運転する車が木造校舎の坂道を上り、校庭の下の駐車場に入ると、大きなショベルカーを乗せた大型トラックが二台、一番手前の入口付近に陣取っていた。

「チカちゃん、まだ来ていないようだな」小山は駐車場の中へ入りながら、地元テレビ局の車を探した。
「どうしたのかしら」真理子とタケシは車を降りると、周囲を見渡した。
いつもと違って多くの自動車が来ているが、それらしい車はなかった。



「元気を出して」
美奈子が歩きながら言う。

健一はうつむき加減に、何も言わず、慶太の後をゆっくりと歩いた。

狭い石段や、薮の横の坂道を下り、駅が見えて来ると、美奈子は立ち止まって慶太に言った。

「どうもありがとう。あとは私たちだけで帰れるわ」
美奈子は慶太からスポーツバッグを受け取ると、慶太にお礼を言った。

健一は慶太を振り返ることもせず、足元に視線を落としたまま、何も言わずにゆっくりと歩いて行く。
美奈子は健一に追いつくと、一緒に歩いて行った。



木造校舎の周辺では、会場の大教室に入れない子供たちが遊んでいる。
大教室の方では、テーブル席はほとんど埋まり、立っている人も増え始めた。

教室の前方にいる波木のもとへ、松五郎がやって来た。
「会長さん、先日は失礼しました。
ご迷惑をお掛けしたようで・・・酔っていたもので何も覚えていないのですが・・・」
「今日はご覧の通り、老人や小さい子供も集まっている。この前のような手荒な真似はしないでもらいたい」
「もちろんですとも。十分反省しております。・・・おや?うちの社長がご挨拶に参りました」

「会長さんよ」奥田がやって来た。「弟を紹介しよう。弁護士だ。わが社の社外取締役も務めている。
法律的に間違いが起こらないようにしたいのでな」

「奥田です」奥田弁護士は波木に名刺を渡した。
「会長さんよ」奥田社長が言った。「今日は、約束どおりに事を進めたい。講義が条件を満たしたら工事は中止。条件が満たされなかったら、その時点で発表会は中止だ。
関係者以外、すみやかに校舎から退出してもらう」
「わかっている」波木はうなずいた。


奥田は教壇の正面の通路を通って後方へ歩くと、その突き当たりの折りたたみ式のイスに、腕を組んで座った。
弟の奥田弁護士はその斜め後ろのイスに座ると、奥田の耳元でささやいた。
「妙なウワサを聞いたぞ。工場建設の裏では不正な金が流れているという話だ。事実ではないだろうな」
「・・・」
「まさか・・・今度はもう守り切れないぞ」
「心配するな。ちゃんと手は打ってある」
「今は大事な案件を抱えているって言ってあるだろう?こちらの面倒まで見られるはずがない」

奥田弁護士は、焦ったように周囲を見回して言った。
「まだ間に合う。手を引くんだ」
「もう遅い!」
「・・・」



平和台駅の玄関の横にある大きな木には、クリスマスの飾り付けがされていた。
健一はその木を見上げ、金や銀の星形が光っている様子をじっと見ていた。

美奈子は、玄関先の白い屋台で、牧場で採れた牛乳を買い求めた。
温かい牛乳が大きな柄杓で2つのマグカップに注がれると、白い湯気が立ち昇った。

美奈子はふと振り返ると、遠くで慶太が道路わきの石段に座って、こちらを見ていることに気が付いた。
「あれ?あの子、帰らなかったのかしら。
寒いのに、あんなところに座って・・・」

美奈子は、暖かいミルクが入ったマグカップを両手に持つと、慶太に声を掛けた。
「おーい。こっちへいらっしゃい」

遠くに座って、駅の方を向いていた慶太の顔が、横を向いた。
「変ねえ・・・」
美奈子は首を傾げた。
慶太は、遠くの山の麓の方から近づいて来る、かすかに見える列車に気が付いていた。

美奈子は大きなクリスマスツリーをじっと見上げる健一の横に来ると、マグカップを手渡した。
「カラダ、温まるわよ」

前に差し出されたマグカップに視線を落とすと、健一は黙ってそれを両手で持った。

暖かい牛乳から立ち昇る白い湯気に顔を近づけ、それを一気に飲み干すと、健一は口からゆっくりと息を吐いた。

「三乗、技法・・・。サン、ジョウ、ギ、ホウ・・・。三、定規法・・・」

「!」

健一は大きく目を見開いた。

美奈子はほっとため息をついた。
「ああ、おいしい・・・」

美奈子がふと横に立つ健一に目を止めると、健一は放心したような表情で、両手で包むように持ったマグカップをゆっくりと近くのテーブルの上に置いた。

「どうしたの?」

「解けたかもしれない・・・」

「え?」

健一は美奈子を見て言った。
「戻るよ。みんなのところへ」
美奈子がそれに答える前に、健一は木造校舎への道を走り出していた。

「ちょっと!健一!」
美奈子は叫んだ。
「あなた、帰りのキップ代、持ってるの?」

遠くから健一の声が帰って来た。
「走って帰る!」


美奈子は、地面に置かれたままになっている健一の荷物をつかみ取った。
「またバカなこと言って、もう!」
美奈子はそう言うと、コインロッカーに二人分の荷物を投げ込んでカギを閉め、小さなバッグだけを肩に掛けて、校舎への道を戻り始めた。



「わかった! わかったぞ!」

健一は木造校舎への道を、夢中で走っていた。
走りながら健一は、いつの間にか慶太が斜め後ろを一緒に走っていることに気がついた。

「慶太!みんなの所へ戻る!校舎への近道を教えてくれ!」
「こっちだ!」


慶太は、健一の前を横切り、畑のあぜ道に飛び降りると、その先の薮の中へと一直線に走った。
健一も慶太の後に続いて走った。

薮を抜けると小さな川があった。川の中の飛び石を滑らないように注意して渡り終えると、その先に2メートルくらいの高さの崖が見えた。

慶太は、崖の上から垂れ下がった太いロープを両手でつかむと、その崖を軽々と登って行く。
健一も慶太の後から、ロープをつかんで登った。

崖の上の雑草をかき分けると、平和台中学校の校庭に出た。


日曜日の練習をしている生徒たちの間を、慶太と健一が走り抜ける。

砂場の横で生徒たちに指導している陸上部顧問の男性教諭が、こちらに向って走って来る健一に気が付いた。

健一は、教諭の前の踏み切り板でジャンプすると、今までにない距離を跳んで砂場に着地し、そのまま駆けて行った。
見ていた女子中学生たちは、驚いて健一が跳んだその距離を測る。

「・・・信じられん」
教諭はぼう然と砂場に立ったまま、遠くを走って行く健一の後ろ姿を見てつぶやいた。



「何だこれは・・・」
廊下にいた松五郎は、教室の前方から中をのぞき込んで部下に言った。
会場のテーブル席は二列とも、老人たちや赤ん坊を抱いた婦人たちがほとんどで、その周囲では高校生や教材作家、一般の人たちが立ったまま開始を待っている。
「まるで、電車やバスの優先席みたいじゃねえか・・・」


「いつになったら始まるんだ!講師はまだ来ないのか?」
教室の後ろからヤジが飛んだ。

地元テレビ局のチカが、テレビカメラを持った男たちを連れてあわただしく教室に入ってきた。
「チカ!」真理子が待ちかねたように言った。「何をしていたのよ!」
「カメラは立入禁止だって言われて動けなかったのよ。ここまでカメラを担いで坂道を登って来たのよ」

奥田は松五郎を呼ぶと、小声で言った。
「おい、オレが合図をしたら、まずカメラを持った男を外に追い出せ」
「わかりやした」

小山が教室の前の方に立つと、場内に呼びかけた。
「長らくお待たせしました。教材まつり最終日の教材講義、教材発表会を始めたいと思います。
発表に先立ちまして、主催者よりご挨拶をさせていただきます」

真理子が壇上に上ると、場内は静まった。
「本日は、大勢の方にお集まりいただき、ありがとうございます。
教材作家たちは、私たちみんなにとって身近なことを、とても大切に考えています。
この村の環境についても、そして二年後には百年目を迎えるこの木造校舎にも、重大な関心を持っています。
今日は最終日ですので、通常であれば教材作家認定式を最後に行うことになります。
でも、それはできないかもしれません。
認定式が始まる前に、この木造校舎の取り壊しが始まってしまうかも知れないからです」

場内が騒がしくなった。真理子が続けて話そうとすると、奥田が立ち上がった。
「一つ主催者に聞きたいことがあります」
奥田は大きくよく通る声で言った。

「私は今日の教材発表会を楽しみにして来ました。
もし講師が来ないのであれば、私は帰りたいのです。
では一体、講師は来るのでしょうか。それとも来ないのでしょうか」

真理子は壇上で唇を噛み、言葉を探した。奥田はゆっくりと会場を見渡した。
「ここにせっかく集まっている人々を、主催者はダマすつもりでしょうか?
ウソはやめてもらいたい!
答えてください。講師は来るのか、来ないのか」
奥田は真理子をにらみつけた。

「講師は…」真理子は奥田をにらみ返した。「来ません」

「発表会は中止だ!」奥田は大声で叫んだ。

その声を合図に、奥田の部下たちがテレビカメラを追い出しにかかった。
「発表会は中止です。校舎への立ち入りはできません」
場内は騒然としていた。

教室の出口付近で観客を追い立てようして騒ぐ奥田の部下たちの間に、内田と山中たちが割って入ると、観客を安全に校舎の外へ誘導しようとした。

一番前の席に座っていた老人だけが、「ここは立入禁止だ!」と耳元で言われても平然と座っている。
部下が松五郎に大声で言った。「だめだ!じいさん、耳が聞こえないらしい!」
「何人かで担いで、外へ運び出せ!」

二人掛りで腕をつかもうとすると、老人は腕を引き離し、気安くさわるなと言いたげな表情で部下たちをにらみつけた。

「お静かに願います!」波木の声が響いた。
「最後のご挨拶をさせていただきます。みなさん教室へお戻りください」


場内はふたたび落ち着きを取り戻し、人々は教室に戻りはじめた。
波木は静かに壇上に上った。

「本年度の教材まつり最終日の今日、このような事態となってしまい、主催者といたしまして皆様に深くお詫びいたします。
本日は2つの教材発表を予定しておりましたが、私ども主催者側の都合により・・・」

廊下にいた子供たちが何やら騒ぎはじめたため、波木は話を中断した。

トモミがあわてて教室に駆け込んで来た。
「健一にいちゃんが来た!」

場内にどよめきが起きた。

健一は小さな子供たちに囲まれながら入ってきた。
「できました。やっとできたんです」

壇上から波木が答えた。
「わかった。よし。健一君の教材発表を聴こう」

健一が大教室の廊下側の立ち見席を通って前へ行こうとすると、大勢の人々が席の移動を始めたために健一は進むことができず、その場に立ち尽くしてしまった。

健一が驚いて見ていると、テーブル席に座っていた老人や赤ん坊を背負った婦人たちが一斉に立ち上がり、今まで教室の左右両側に立っていた高校生たちが、とまどいながら次々と席に座らせられている。
これは一番前の席に座った杖を持った老人が立ち上がり、自分の席に、横に立っていた高校生のシゲルを座らせようとしたことに、皆が倣ったことによる。

老人、女、子供たちが席を離れ、高校生たちが席に付くと、教室は静まった。
そして窓際の立ち見席に立つその老人が健一に向かって拍手を始めると、場内は大きな拍手につつまれた。

健一は教室の真ん中の通路が空いていることに気がついて、教室の後ろ側を中央まで歩き出した。

「不可能の証明なら、教科書に書いてあるぞ!」
拍手に入り混じって、ヤジが飛んだ。

「ちゃんと本を読んだのか?」
「しっかり勉強しろよ!」

教壇を正面に見る後方中央の椅子に、奥田が座っている。
健一は、その奥田の正面の通路を、教壇に向って歩いて行こうとした。

「おい、自分で考えたのか」
奥田が口を開くと、場内が静まり返った。
「はい」健一は振り返って答えた。

「ふむ、えらいやつだ」
奥田はそう言うと、教室の前方にいる松五郎に呼びかけた。

「おい、松、お前この小学校の卒業だったな」

「へえ」

「この校舎も今日で終わりだなあ」

「おっしゃる通りです。なんか、こう、胸がいっぱいになりますねえ」

「だったら、なあ、最後の授業ぐらい、まじめに聞くんだぞ」

場内に笑いが起きた。

「最後ではありません」 健一の声が響いた。
「続いていくのです。これからも、ずっと・・・」

笑い声が止み、場内は静まり返った。

「何だと?」奥田の地響きのような低い声と、鋭い視線を避けるように、健一は前方を振り返ると、「それでは始めます」と言いながら、足早に教壇へ向った。

奥田は立ち上がって叫んだ。
「何でもいい!時間がないんだ!早くしろ!」

教壇の横のテーブルでは、松五郎が指定の教材を並べて待っていた。

「さあさあ、年代ものの教材だよ。
大正十二年度卒業記念。こいつは昭和十年度卒業生一同。
コンパスに三角定規と直線定規。かまわねえ。なんでも好きなもの持って行きな」

健一はそれらすべてを両腕で抱え込むと、教壇へ上った。
松五郎は、あっけに取られたようにつぶやいた。
「ぜんぶ持って行くのね・・・」


健一がコンパスと定規を抱えて教壇に立つと、教室の後ろから男の声が響いた。

「君がこの講義で使う教材は何だ?それを最初に教えてくれ!」

「えっ・・・、定規と、コンパスと・・・、それから・・・」
「それから、何だ?」
「一休さんの知恵」
「トンチかよ!」

場内から低い笑い声や、心配そうなどよめきがもれた。

「数学の問題を、トンチを使って解くと言うのか?」

「問い掛けを・・・、私の最終の問い掛けを、話すように言われました。・・・それを、始めます」



「デロスの問題は立方体倍積問題とも言われ、それは物語として伝えられています。
むかしむかし、ギリシアに疫病が流行したときに、人々はデロス島にあるアポロン神殿の神託を仰ぎました。
すると、ここにある立方体の祭壇について、体積が2倍のものをあらたに作れ、そうすれば疫病は止むであろう、という神託がありました。

人々が立方体の3つの辺をそれぞれ2倍して祭壇を作ると、体積は8倍になりました。
祭壇を2個並べた長さに作ると、体積は2倍ですが、立方体ではなくなってしまいました。
疫病は止みませんでした。

困った人々はプラトンに相談し、ついに複雑な器械によって体積2倍の立方体の1辺の長さである2の3乗根が求められ、疫病は止みました。

私が教材作家の皆さんと研究したのは、教材として学校で普通に使われるコンパスと定規を使った2の3乗根の作図法です。
正統な数学上の使い方ではありませんが、技術的には船の航海士による海図上での定規の使い方に似ていると思います。

まず、安藤さんが円積問題の講義で、パイ座標として使われた方位座標を書きます。
横軸を書き・・・、垂直に交わるように縦軸を書きます。

方位座標の上下左右は原点からの方位と距離を示し、マイナスの考え方はありません。

次に、定規を三枚用意します。
速見さんは正七角形の作図でコスモ定規を三枚連結させて使用しましたが、立方根の作図では、学校で普通に使われる三角定規や直線定規を三枚使います」

「それでは2の3乗根の作図を始めます。

コンパスを使って、元になる大きさの立方体の一辺の長さを測り、

方位座標の縦軸と横軸にその長さを取り、

横軸についてはさらに、その長さを2倍します。

横軸と縦軸に付けた目盛りの原点からの長さの比は、2対1になっています」

会場からヤジが飛ぶ。
「黄金直角三角形と関係があるというのか?」

健一は言葉に詰まり、少し間を置くと、ゆっくり話し始めた。

「いえ、関係ありません。
ここまでは黄金直角三角形の作図と同じになっています。

縦軸の1の目盛りにコンパスの軸を置いて、横軸の2の目盛りまでの長さを、半円を書きながら縦軸に取ると、

横軸のAと縦軸のB、そして原点Oを結んだ三角形ABOは、黄金直角三角形になります。
OA、OBの長さの比は、黄金比になるからです。

正五角形の作図では、OAとOBの長さの比は、正五角形の一辺と対角線の長さの比になります。

また、OBとBAの長さの比は、正五角形の外接円の半径と正五角形の一辺の長さの比になります。

三乗根、つまり立方根の作図では、黄金直角三角形の作図と違って、縦軸の1の目盛りをBとします。

それから、定規を三枚用意します。

三角定規でも直線定規でもいいのですが、二枚の定規の辺と辺を合わせたとき、直角ができるものを選びます。

私は三角定規を定規1と定規3として使い、直線定規を定規2として使うことにします。
3枚の定規の位置を、4つのステップで決定します。
これは、安藤さんの手紙に書かれていた三乗・技法をヒントにした定規三枚による作図法、三・定規法です。

定規1の辺をBに当てます。そして声に出して 1 と言います。

定規1と定規2でつくる直角を、横軸の上に乗せます。点Aが原点の右にあれば、直角を乗せる横軸は原点の左です。そして 2 と言います。

定規2と定規3でつくる直角を、縦軸の上に乗せます。そして 3 と言います。

この三つの状態を保つように、三枚の定規の位置を微調整しながら、定規3の辺をAに当てます。そして 4 と言います。

この4つのステップで三枚の定規の位置が決ったら、定規1と定規3を外します。

定規2の位置はそのままで、直角ができていた横軸上と縦軸上の2点間を直線で結び、C、Dとします。

CとDの位置関係をはっきりさせるために、BとC、DとAを直線で結びます。
角BCDと、角CDAは直角になっています。
ここで、相似形の直角三角形がいくつかできていることに注意してください。

原点を O とします。
こうしてできた五角形AOBCDにおいて、

OAの長さが2、
OBの長さが1であるとき、

OCの長さは、

2の3乗根であると思います。

私と同じ考えの人は、証明してみてください」


健一が2の3乗根と書いた頃から、場内がさわがしくなり始めていた。

席に座っていた高校生たちは、健一が話し終わると一斉に証明を開始した。

周囲では、立ったままメモ帳に書き始める人もいれば、「紙・・・誰か紙持ってないか?」とあわてて聞いて回る人もいた。
しかしほとんどの人々は、高校生一人一人をそれぞれ囲むように立って、心配そうにノートを覗き込んだ。

ただ会場の後ろの方で、腕組みをして中央の椅子に座っている奥田は、平然と薄笑いを浮かべたまま動こうとはしなかった。

<第22話 終>